2007.05.31
イッタラ、
「いいだろ?このマグ。」と僕がイッタラ、
「っていうか、フツー。」と妹はイッタ。

イッタラ ティーマ(ittala teema)のマグカップ。
ずっと欲しかったティーマのカップを、
自分より先に、父&母へのプレゼントとして。
と言っても、母から貰った商品券で購入したのですが・・・(笑)

最近は、僕の帰郷のたびに、
日に2〜3度の挽きたてコーヒータイムが供されるため、
ちょっと素敵なカップを、と思いまして。
妹がイッタように、ごくごくフツーのマグカップ。
この上なくフツーで、この上なくシンプル。
だけどその美しさゆえ、見ているだけで豊かな気持ちになってくる。
シンプルとは、多くを削り取った結果なのではなく、
多くを受け入れる可能性を「持っている」ということなんだ、
と、改めて思った。
物事、
突き詰めていったその先に、真逆のものが観えてくる、
な〜んてことは案外多い様な気がする。
複雑さも、それを表現するにあたっては、
至ってシンプルな技法を用いなければならない、
と、パウル・クレーも言っていたとか。
2007.05.28
2007.05.23
帽子を買いました。

キャプではなく、はじめてのハット。
きっかけは、友人達に「けっこー似合うじゃん」と言われたこと。
そう、調子にノッちゃったわけです。
で、買うに至ってはじめて分かったこと。
1. 持つ際には必ずツバの部分を両手でそっと。
2. どれだけ汗をかいても基本的に洗いはNG。
(よって日々の手入れがとても肝心になる)
3. ちょっとイイものになると裕に2〜3万円越え。
(あ、僕のは全然安いです)
4. イカツイお顔の店員さんでさえ、呼び方は「お帽子」と。
てなわけで、
帽子とは本来は、紳士・淑女のものなんだなぁって、
歴史的なことは全く知りませんが、そう感じちゃいました。
もちろん、
そんなことはどーでもいい&もっと自由にかぶればいい、
っていうのもひとつの在り方。
でも僕は、このジェントルマンでちょっと窮屈な感じがいいなぁ、
と、今回ばかりは思ったのでした。
ある作法や型を借りることで、
いつもとは違った自分を気取ることができる、みたいな。
最近すっかりおしゃれから遠のいていた僕ですが、
(もともと近かったわけでもないんけどね・・・)
お帽子をかぶることで、いとも簡単に、
ちょいおしゃれ「っぽく」見えてくれる。
ホントに助かっちゃって、なんだかハマりそうな予感です。
2007.05.22
2007.05.22
2007.05.20
マツ
2007.05.19
ないだろうか。
世界はおそらく
ひとつしかないけれど、
世界の見方ならば無数にあって、
できる限り
ひとつに固執したくはないから、
時にはこんなふうに、
転がってみたり、
目隠ししてみたりもしつつ、
日々、新鮮な見方というものを・・・

ある程度長く生きてると、
常識やら偏見やらでベタベタになった世界の見方を、
あたかもそれだけが本当であるかの様に、
思い込んじゃって、信じきっちゃって・・・
それは、なかなかにつまらないことだ。
でも、うま〜く
その「ベタベタ」を剥ぎ取ることができたなら、
そのあとに見えてくる世界の姿って、案外、
子どもの見ている世界に近かったりするんじゃないだろうか。
何か新しい分野について学ぶってことは、
その「ベタベタ」を剥がす為の、一つの良い方法になると思う。
してみると学ぶってことは、
ある意味では、子どもに還るってことでもあるんじゃないだろうか。
2007.05.19
2007.05.17
燃えた

(今日は、気分的に「である」調で書きます)
今さらであるが、
GW中に二度のバーベキューを行った。
一度は高校時代の友人らと。
もう一度は家族&親戚らと。
万端で望んだつもりであった友人らとの会は、
蓋を開けたら、びみょーに準備不足。
ゆるやかにくすぶる炎のもと、
ジリジリと歯痒さの伴う「焼き」となった。
もっとも友人らとは、その様な失敗ですら
楽しさのひとつの種となるのだから素晴らしい。
一方、家族らとの会。
こちらは毎年同じ地で開催されており、
歴史も深いだけに、準備は完璧である。
三台用意された七輪の下部から、
電動のファンによって、これでもかと吹き上げられる風を受け、
備長炭らは、おのれの能力の限界に挑むかの様に燃え上がった。

↑ やや、燃えすぎである。
さらに、人生初となる「鹿肉」を食す。
脂身が少なくヘルシーなうえ、なかなかの美味であった。
バーベキューは「焼いて」「食べる」という至ってシンプルな行為。
しかし、その「シンプル」を淀みなく行うには、
言うまでもなく安定した充分な火が必要となる。
仕切りを親世代に任せきりとなった家族らとの会であったが、
その点に於いて、やはり大人はスゲェ・・・と、
感心せずにいられない、もう一方の大人=僕であった。
2007.05.16
ほしぃ
2007.05.12
ツーは

色そのもの
なんていうものは存在しない。
僕らは色を見る時、常に、
その色を帯びた「何か(の質感)」
と同時に見るんであって、
色そのものだけを見るわけじゃない。
リンゴの色を見る時、
僕らは同時に、
リンゴの皮の質感も見ている。
絵本の色を見る時、
僕らは同時に、
絵本の紙の質感も見ている。
色そのもの
なんていうものは概念でしかない。
単独の、実在としての色なんて、
自然界には存在しない。
まぁ、それはいいとして・・・
コーヒーを飲むっていうのも、常に、
味だけじゃなく「温度」を感じながらのことですよね?
そろそろアイスコーヒーの美味しい季節がやってきますが、
通(ツー)はやっぱり、一年中、
あつあつのホットでいくべきなのでしょうか?
2007.05.11
2007.05.08
実は、
2007.05.06
窓辺にて
2007.05.05
2007.05.05
Golden Baby
2007.05.05
ウドとワラビ
2007.05.04
2007.05.04
2007.05.03
2007.05.02
今日の越後は、

雨降りです。
特に予定もなく、散歩もサイクリングもできないので、
取り留めのないことを書こうと思います。
昨日、父親の部屋の模様替えを手伝っていたら、
新しく届いた(といっても中古の)デスクの引き出しから、
使い古しの鉛筆が数本出てきた。
みんな同じくらい短くて、しかもちゃんと削ってある。
使い込んでる。
もちろん職業にもよるけれど、
今時あまり見ないモノだったので、思わずパチリ。
僕の左の掌には、鉛筆の芯が刺さった跡がある。
もう十年以上前からかなぁ。
刺さった時は、もちろんすぐに抜いたけど、
鉛が全部抜けきっていなくて、黒くホクロみたいに残ってる。
話は変わって、
最近読んだ本に面白いことが書いてあった。
僕らは、経験したことを言葉で表現すると、
経験そのものを誤って記憶しやすいらしいと。
(おぉ、まさに今僕がやっているこの行為じゃないか・・・)
言葉は、経験をかいつまんで表現するから、
しかも言葉の数は、経験の数ほどに多くはないから、
経験の言語化という作業は、どうしても、
開いた花びらを、再びきゅきゅ〜っと
つぼみに戻すかの様な、圧縮の作業が必要になるのだろう。
(たぶん。ココは僕の解釈だけど・・・)
その過程で僕らは「経験そのもの」よりも、
むしろ「言語化された経験」の方を記憶してしまう、らしい。
もちろん、それは決して悪いことではなくって、
そうやって次々に起こる無数の出来事の
ポイントだけを記憶するという、優れた特徴でもある。
だって「生きた分だけの長さ」の記憶なんて、持てっこないんだし。
でもやはり、ホントに大事な経験を、
すぐに言葉にしてしまうのはもったいないのかも知れない。
ある程度、味わって、まどろんで、
場合によっては言語化なんていう作業は、
その後のあと片付けの様にすればいい、のかも知れない。
ということを心に留めつつ、
これからもココを書いていきたいなぁ、と思う。
2007.05.02
2007.05.01
2007.05.01
香りよ、立て。
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