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2006.10.07

姪、そして仮想。

先日も書きましたが、田舎の妹から
「姪が歩き始めた」という内容のメールが動画と共に届きました。
見てみると、そこにはわずか15秒の間に、
2度も転んでは立ち上がる姪の姿が映されていました。

考えてみれば、初めて歩くということは、
初めて転ぶということでもあるんですよね。
そんな二つの「初めて」を小さな身体の全身で受け止め、
無心に風船を追いかけていた姪の姿に、僕はいたく感動してしまい、
その姿を是非ナマで見たいと思いました。
そして、ちょうど別件も重なったその週末に帰省することができ、
お伝えした通り、ナマ姪に会ってきました。

ところが会ってみると、結構ちゃんと歩くんですね。(笑)
ふらふらではありましたが、もう転びはしない。
ホント、早いもんです、子どもの成長って。

で、それはそれでもちろんかまわないし、
とっても嬉しいことではあったのですが、
一方で、届いた動画で見ていた様に、
「転びながらもふらふらで歩く姪を目の前で見、
 もう一度その感動を、ナマで噛みしめている自分」
という帰省時のイメージは、その時点で単なる想像上のものとなり、
現実に起こったこととはまた別のものとして、
僕の脳内に刻まれることとなったわけです。

(一応何度も言いますが、いいことなんですよ。
 歩ける様になっていたことを悔やんでいるわけじゃありませんよ・笑)



「 脳と仮想 」 茂木健一郎

「今日の私たちにとって、何よりも大切なのは現実である。
 仮想するだけでは、この現実の世界を変えられないという認識が、
 骨身に染みている。
 仮想の世界は、映画や小説といったフィクションの世界に
 閉じ込めてしまって、現実の生活の息抜きにすれば良いなどと考えている。
 現実の生活に、仮想が深く関わるなどとは、
 現代人はおそらく本気では思っていない。

 しかし、実際には、私たちの生活体験は、
 現実と仮想の織りなす布のようなものである。
 確かに私たちが出会う多くのものは、現実のものたちである。
 しかし、その至るところに、
 それとは気付かないような繊細でかつ微妙な形で、
 この世のものではない仮想のものたちが潜み、絡み、顔を覗かせている。」
(本文より)

考えてみると、僕らの脳内で起こっていることの中で
仮想の占める割合は決して少なくはなく、そしてさらにその中で、
仮想されるだけで終わってしまうものも、とても多い様に思います。

仮想は、ほとんどの場合、
現実の経験に端を発して起こるものかもしれませんが、
一度始まってしまうと、あとはもう、どんどんどんどんと膨らんでいく。

そして、対象をよく知るからこそ創り出される仮想と、
充分には知らないからこそ創り出される仮想とがあり、
それは、どちらが劣っているとは決して断言できるものではない、
そう思います。

「初恋の仮想も、日常生活の中で流れに浮かぶ泡沫のように
 生まれては消える取るに足らない仮想も、
 実現しなかったからこそ切実な作用をもたらす時がある。」
(本文より)

実現には至らなかった僕の帰省時の仮想は、
それでもしっかりと、僕の姪への思いを形成する
大切な一部であり続けるのです。
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Posted at 09:25 | | COM(2) | TB(0) |
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