2006.07.28
思い出って、
2006.07.22
水、また水。
2006.07.21
↑↓ 。
いっちゃったままにならないこと。
往ったら、必ずまた戻ってくること。
戻ってきて、その位置から
さっきまで自分が往っちゃってた場所を
見渡してみること。
その上で、
また往きたければ、往けばいい。
つまり、「往ったり来たり」すること。
往ったら、必ずまた戻ってくること。
戻ってきて、その位置から
さっきまで自分が往っちゃってた場所を
見渡してみること。
その上で、
また往きたければ、往けばいい。
つまり、「往ったり来たり」すること。
2006.07.19
時計
2006.07.19
slow life by lb.
2006.07.18
カマキリの大きさ
小学生の頃、図画の時間にカマキリの絵を描きました。
机の上にカマキリをのせ、それを興味津々な表情で覗き込み、
掴んでやろうと手を延ばしている、僕とカマキリのツーショット。
最初僕はカマキリを現物と同じ、
つまり延ばした自分の手をよりも随分と小さく描いていました。
それを見た先生は「もっと大きく描きなさい」と僕にアドバイスをくれ、
僕が少しだけ大きく描き直すと、さらに「もっともっと」と。
先生としては、子どもらしくのびのびと、
興味の対象を中心とした主観的世界を表現させたかった様です。
僕は先生のアドバイスを素直に聞き、さらに大きく、延ばした手の中には
とうてい納まりきれないくらいの巨大なカマキリを描きました。
結果、とてもダイナミックな絵に仕上がり、先生は満足そうでした。
その、現実にはあり得ないくらい大きなカマキリの絵は、
自分の感性に忠実になっただけでは描き得なかったもので、
何か借り物の様に感じたけれど、そんな違和感が逆に新鮮でもありました。
その絵を、僕はとても気に入っていたし、
先生にも褒められ、コンクールで賞を獲ることもでき、
よい思い出として僕の中に残っていました。
だから先生のアドバイスに従ったことは良かったんだ。
ずっとそう思っていました。
そして最近、こんなことを考えます。
カマキリを、見たまんま、現物と同じサイズで描こうとしていたところが
当時の僕の個性だったのではないかと。
主観的世界ではなく、現実的世界を映しとることにこそ、
興味を抱いていたのではないかと。
大きく描かれたそのカマキリに新鮮さを感じていたことは確かです。
でもそれと同時に、その絵が僕のものであるという感覚を、
いつになっても持つことが出来ずにいたのです。
何がいいとか悪いとかをここで書きたいわけではありません。
だけど、その子どもが執着を見せることは、
必ずしも大人の思う「子どもらしいこと」ばかりではないかもしれない。
リアルに現実を映しとることに必死になる子どももいるかもしれない。
そういった個性の存在の可能性に、眼を開いておくことも必要ではないかと。
大きく描かれたカマキリを、いたく気に入って、
賞まで頂いて、よい思い出を作ることができた素直な子どもは、
大人になってひねくれた今、ひとりそんなこと思うのでした。(笑)
机の上にカマキリをのせ、それを興味津々な表情で覗き込み、
掴んでやろうと手を延ばしている、僕とカマキリのツーショット。
最初僕はカマキリを現物と同じ、
つまり延ばした自分の手をよりも随分と小さく描いていました。
それを見た先生は「もっと大きく描きなさい」と僕にアドバイスをくれ、
僕が少しだけ大きく描き直すと、さらに「もっともっと」と。
先生としては、子どもらしくのびのびと、
興味の対象を中心とした主観的世界を表現させたかった様です。
僕は先生のアドバイスを素直に聞き、さらに大きく、延ばした手の中には
とうてい納まりきれないくらいの巨大なカマキリを描きました。
結果、とてもダイナミックな絵に仕上がり、先生は満足そうでした。
その、現実にはあり得ないくらい大きなカマキリの絵は、
自分の感性に忠実になっただけでは描き得なかったもので、
何か借り物の様に感じたけれど、そんな違和感が逆に新鮮でもありました。
その絵を、僕はとても気に入っていたし、
先生にも褒められ、コンクールで賞を獲ることもでき、
よい思い出として僕の中に残っていました。
だから先生のアドバイスに従ったことは良かったんだ。
ずっとそう思っていました。
そして最近、こんなことを考えます。
カマキリを、見たまんま、現物と同じサイズで描こうとしていたところが
当時の僕の個性だったのではないかと。
主観的世界ではなく、現実的世界を映しとることにこそ、
興味を抱いていたのではないかと。
大きく描かれたそのカマキリに新鮮さを感じていたことは確かです。
でもそれと同時に、その絵が僕のものであるという感覚を、
いつになっても持つことが出来ずにいたのです。
何がいいとか悪いとかをここで書きたいわけではありません。
だけど、その子どもが執着を見せることは、
必ずしも大人の思う「子どもらしいこと」ばかりではないかもしれない。
リアルに現実を映しとることに必死になる子どももいるかもしれない。
そういった個性の存在の可能性に、眼を開いておくことも必要ではないかと。
大きく描かれたカマキリを、いたく気に入って、
賞まで頂いて、よい思い出を作ることができた素直な子どもは、
大人になってひねくれた今、ひとりそんなこと思うのでした。(笑)
2006.07.17
ポッへ

東京都は世田谷区奥沢に、D&DEPARTMENTという
ロングライフデザインをテーマとしたショップ&カフェがあります。
(実際は工房もデザイン事務所もあり、あらゆる活動の場を兼ねています)
その中に最近新しく立ち上がったお店、「 Pohhe(ポッへ)」。
コンセプトは「こどもショップのふりをした大人ショップ」だそうです。
かわいい雑貨や小物、大人なら一見ガラクタとも判断しかねないパーツ等が
独自の視点を持ってセレクトされています。
他にも、「えほんぐるぐる」という中古絵本の交換システムがあり、
持参した絵本2冊に対し、コーナーにある絵本1冊と換えることが出来ます。
(ただし、対象絵本には若干の規定があるようですが)
D&DEPARTMENT、
生活の中でしっかりと機能するデザインを見つめた、
本当に素晴らしいお店です。
関東近辺にお住まいの方、
「遠いけどそこまで行くっ!」という方は是非どうぞ。
また、ポッへは無さそうですがD&DEPARTMENTは大阪店もあります。
詳しくは「D&DEPARTMENT」でご検索を。
上の写真はポッへで仕入れたパーツたちです。
2006.07.14
特集! ノッポンくん
2006.07.13
2006.07.13
何かについて、
わかることが重要なんじゃなくて、
かと言って、わからない方がいいわけでもなくて、
「わからない」から「わかる」へ少しづつ移っている、
そんなアクティブな状態でいることが、いいんだなぁ、きっと。
かと言って、わからない方がいいわけでもなくて、
「わからない」から「わかる」へ少しづつ移っている、
そんなアクティブな状態でいることが、いいんだなぁ、きっと。
2006.07.09
らしいですよ。
2006.07.08
言葉をおく
作家は
ソファに座って
考えをあたためている、
やがて
紙に
言葉をおき、
それを切り、刈りこみ、
設計し、形をととのえる。
(本文より)

「 A Writer 作家 」 M. B. ゴフスタイン 作・谷川俊太郎 訳
作者のゴフスタインは、
作家というものを、静かに、丁寧な眼を持って見つめています。
その中で、冒頭に抜粋した
「 紙に 言葉をおき、」という一文に、僕はシビレました。
ふだん僕らは、紙に言葉を「かき」ます。
あるいは今では、パソコン上に言葉を「うち」ます。
でもこの本で、言葉は紙に「おく」ものなのです。
そこにこの作者の、作家というものの、
言葉の扱い方、言葉に向かう姿勢のすべてが現れている様に感じます。
書くことで、言葉を紙という物質に定着させるだけでなく、
(もちろん、現実的にはそうに違いないのですが・・・)
自分の中で、大切に育ててきた言葉を、
あたかも生きているかの様に、紙の上にそっと「おく」。
自分以外の、紙という配達人にそっと託す感じでしょうか。
そんなふうに、日常のあらゆる場面に、
言葉を「おいて」みたいと思いました。
言葉を、目の前においてみる。
言葉を、手のひらにおいてみる。
言葉を、自分の中においたままにしてみる。
言葉を、自分と相手との間においてみる。
言葉を、食卓においてみる、ベッドにおいてみる、
家においてきてみる、水面に浮かべてみる、
宙へ放してみる、言葉を。
ほんの少しの言い換えによって、
僕らのものの見方、あるいは見え方は、
全く違ったものへと、なってゆく様に思います。
認識って、言葉から変わるもんです。
ソファに座って
考えをあたためている、
やがて
紙に
言葉をおき、
それを切り、刈りこみ、
設計し、形をととのえる。
(本文より)

「 A Writer 作家 」 M. B. ゴフスタイン 作・谷川俊太郎 訳
作者のゴフスタインは、
作家というものを、静かに、丁寧な眼を持って見つめています。
その中で、冒頭に抜粋した
「 紙に 言葉をおき、」という一文に、僕はシビレました。
ふだん僕らは、紙に言葉を「かき」ます。
あるいは今では、パソコン上に言葉を「うち」ます。
でもこの本で、言葉は紙に「おく」ものなのです。
そこにこの作者の、作家というものの、
言葉の扱い方、言葉に向かう姿勢のすべてが現れている様に感じます。
書くことで、言葉を紙という物質に定着させるだけでなく、
(もちろん、現実的にはそうに違いないのですが・・・)
自分の中で、大切に育ててきた言葉を、
あたかも生きているかの様に、紙の上にそっと「おく」。
自分以外の、紙という配達人にそっと託す感じでしょうか。
そんなふうに、日常のあらゆる場面に、
言葉を「おいて」みたいと思いました。
言葉を、目の前においてみる。
言葉を、手のひらにおいてみる。
言葉を、自分の中においたままにしてみる。
言葉を、自分と相手との間においてみる。
言葉を、食卓においてみる、ベッドにおいてみる、
家においてきてみる、水面に浮かべてみる、
宙へ放してみる、言葉を。
ほんの少しの言い換えによって、
僕らのものの見方、あるいは見え方は、
全く違ったものへと、なってゆく様に思います。
認識って、言葉から変わるもんです。
2006.07.04
かつて、
2006.07.02
おもちゃに感すること
先日、かわいい姪のために某大型ショップへ玩具を探しに行ったのですが、
目につくものも、またこちら(僕以外の人)が目をつけるものも
その殆どがいわゆる「ボタン系」でした。
ボタン系とは(すみません僕が今勝手に系統づけたのですが)、
玩具本体に付いているボタンを押すことで、
音が鳴ったり、何かが飛び出したりと、
その玩具から何らかのリアクションが還ってくるもののことです。
確かにそういった玩具は様々な音を発するので、
一見とても楽しそうに見えます。
でもそれとは裏腹に、遊ぶ側がとるべきアクションは
「ボタンを押す」というひとつのみ。
強く押そうと弱く押そうと、還ってくるリアクションは同じです。
ボタンを押すと音楽が鳴る、ボタンを押すとアヒルが飛び出す・・・
幼いひとは、まだあまり多くのことを出来ないので、
「まずはその程度で」ということなのかもしれませんが、
その単純なワンアクションに対して「ボタン系」玩具には、
実に多様なリアクションが用意されています。
逆に言うと、玩具に何をさせるにも、
遊ぶ側は「ボタンを押す」だけで済んでしまう。
そこに何かやるせなさを感じて、
かわいい姪に「僕はこれを贈りたくない・・・」と思ったものでした。
それでも幼いひとは、勝手にあちこちをいじって遊ぶでしょう。
もしかしたら、そういった玩具にもそれ以上の発展があるのかもしれません。
開発にも多大な労力が注がれていることでしょう。
僕も「事情」に詳しいわけではないので、ここで書いていることは
あくまで、その時に僕が感じたことという範疇を越えません。
でもやはり思わずにはいられないのです。
この世界の多様な味わいは、決してボタンひとつで得られるものではないと。
こういったことはたくさんの方がおっしゃっているのでしょうね。
僕も同じく感じたんです。
目につくものも、またこちら(僕以外の人)が目をつけるものも
その殆どがいわゆる「ボタン系」でした。
ボタン系とは(すみません僕が今勝手に系統づけたのですが)、
玩具本体に付いているボタンを押すことで、
音が鳴ったり、何かが飛び出したりと、
その玩具から何らかのリアクションが還ってくるもののことです。
確かにそういった玩具は様々な音を発するので、
一見とても楽しそうに見えます。
でもそれとは裏腹に、遊ぶ側がとるべきアクションは
「ボタンを押す」というひとつのみ。
強く押そうと弱く押そうと、還ってくるリアクションは同じです。
ボタンを押すと音楽が鳴る、ボタンを押すとアヒルが飛び出す・・・
幼いひとは、まだあまり多くのことを出来ないので、
「まずはその程度で」ということなのかもしれませんが、
その単純なワンアクションに対して「ボタン系」玩具には、
実に多様なリアクションが用意されています。
逆に言うと、玩具に何をさせるにも、
遊ぶ側は「ボタンを押す」だけで済んでしまう。
そこに何かやるせなさを感じて、
かわいい姪に「僕はこれを贈りたくない・・・」と思ったものでした。
それでも幼いひとは、勝手にあちこちをいじって遊ぶでしょう。
もしかしたら、そういった玩具にもそれ以上の発展があるのかもしれません。
開発にも多大な労力が注がれていることでしょう。
僕も「事情」に詳しいわけではないので、ここで書いていることは
あくまで、その時に僕が感じたことという範疇を越えません。
でもやはり思わずにはいられないのです。
この世界の多様な味わいは、決してボタンひとつで得られるものではないと。
こういったことはたくさんの方がおっしゃっているのでしょうね。
僕も同じく感じたんです。
2006.07.02
ウチにも、
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