--.--.--

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

2007.09.04

最近の読書


「禅」 鈴木大拙 著
「日常生活のなかの禅」 南直哉 著
「般若心経・金剛般若経」 中村元・紀野一義 訳注

(全て読みかけ也)

うわぁぁ、こうやって並べると、
明らかに周りにこんなヤツいないなぁ・・・(苦笑)

一部、やはり現代に生きる自分には受け入れ難いものもあるのですが、
今はご覧の通り、仏教に興味信心。
あ、間違えた、興味津々。
宗教に関しては(もちろん絵本に関してもそうですが)、
あまり軽々しく書けるものではないので、しばらく黙ってお勉強です。
スポンサーサイト
Posted at 07:29 | | COM(8) |
2007.06.11

ちゃちゃちゃ


親戚の結婚披露宴まえ、
ご親族控室にて「桜茶」をいただく。



以前から気になっていた
岡倉天心の「茶の本」を、ようやく読み始めた。

が、第一章目から凄い言葉の連発・・・
以下、抜粋↓

それは本質的に不完全なものの崇拝であり、
われわれが知っている人生というこの不可能なものの中に、
何か可能なものをなし遂げようとする繊細な企てである。

茶道とは、美を発見するために美を隠し、
顕わすことをはばかるものを暗示する術だからである。

みずからの中の偉大なものの小ささを感ずることのできない者は、
他人の中の小さいものの偉大さを見すごしやすい。

(桶谷秀昭 訳)

以下、僕↓

よく解らない言葉もあるけれど(笑)、
それでも「なんだか凄そうな気配」だけは、
ひしひしと感じる。

茶道も仏教も、
その深淵なる思想を見聞きするたび、ホント驚く。
それに比べて現代って?
と、他人事の様だけど、やはり思ってしまう。
Posted at 08:18 | | COM(0) |
2007.04.14

出たよ。

私たちの生活体験は、
現実と仮想の織りなす布のようなものである。 本文より



ここ数年で、僕が
もっとも刺激された一冊「脳と仮想」、
その文庫版。

自分の中の、
在るはずだけれど観えていなかった部分、
その中心を、
すっと照らし出してくれて、

読み進むたびに「あぁ、そっかぁ・・・」と、
感動のため息を、幾度となく漏らした。

とても心地良かった。


No imagination, No life.

ついでに、脳ライフ。
Posted at 09:10 | | COM(2) |
2007.02.18

最近は、

珈琲から「食」全般へと興味が広がってきました。
それも、いわゆるグルメ的な意味での「食」ではなく、
命を紡ぐものとしての「食」に。



辰巳芳子 「いのちの食卓」

野菜が欲しいっ! と思った時には、
本当にバカみたいに、一年中、
ブロッコリーとほうれん草とトマトを買い求めていました。
で、実際スーパーには一年中それらがあるし。
だけどどうやら、そうじゃないらしい・・・(え?当たり前?)

「 次の季節を迎えうつ心組みを持って、
  その季節のものを食べてゆく必要があります。」

「 スーパーが頼りの都会暮らしは、何でもあって一見豊かなようだけれど、
  本当は吹けば飛ぶような暮らしで、
  本当の暮らしではないと、意識的に思って下さい。」

「『食べる』ことは、生きることそのもなのです。」

  本文より

そ、そうか・・・ 反省。

で、例によって話はちょっと変わりますが(笑)、
正月に知人の家に伺った際に、
食べかけのパンが容器に入って大切に保存されているのを見て、
「いいなぁ」と思ったのでした。
今までの僕なら、単なる「残りもの」としか見えなかったものが、
その時は、何故かそれが、
「食生活のホントの在り方」として目に映ったのでした。

もちろん、それまで、
残り物を捨てていたというわけではありませんが、
食事の度に作りたてを用意することと、
それを極めていくことが理想であり贅沢だとばかり思っていた。
(まぁ、それは理想かも知れないけれど・・・)

でも「食」とは、
食す側、つまり人間の立場からだけで閉じる問題ではなく、
やはり「他の命」を頂くということでもあって、
そういう意味では、あるものを上手に無駄なく取り入れていくということ、
そして、そう在ろうとする心がけを「持てる」ことの方が、
「他の命」を頂く者として相応しいんじゃないか。
そう思うに至ったのであります。



昨晩作ったスープ。

が、これに合わせたのがコンビニパン・・・(笑)
その辺は、まだまだですね。
Posted at 09:59 | | COM(10) |
2006.10.07

姪、そして仮想。

先日も書きましたが、田舎の妹から
「姪が歩き始めた」という内容のメールが動画と共に届きました。
見てみると、そこにはわずか15秒の間に、
2度も転んでは立ち上がる姪の姿が映されていました。

考えてみれば、初めて歩くということは、
初めて転ぶということでもあるんですよね。
そんな二つの「初めて」を小さな身体の全身で受け止め、
無心に風船を追いかけていた姪の姿に、僕はいたく感動してしまい、
その姿を是非ナマで見たいと思いました。
そして、ちょうど別件も重なったその週末に帰省することができ、
お伝えした通り、ナマ姪に会ってきました。

ところが会ってみると、結構ちゃんと歩くんですね。(笑)
ふらふらではありましたが、もう転びはしない。
ホント、早いもんです、子どもの成長って。

で、それはそれでもちろんかまわないし、
とっても嬉しいことではあったのですが、
一方で、届いた動画で見ていた様に、
「転びながらもふらふらで歩く姪を目の前で見、
 もう一度その感動を、ナマで噛みしめている自分」
という帰省時のイメージは、その時点で単なる想像上のものとなり、
現実に起こったこととはまた別のものとして、
僕の脳内に刻まれることとなったわけです。

(一応何度も言いますが、いいことなんですよ。
 歩ける様になっていたことを悔やんでいるわけじゃありませんよ・笑)



「 脳と仮想 」 茂木健一郎

「今日の私たちにとって、何よりも大切なのは現実である。
 仮想するだけでは、この現実の世界を変えられないという認識が、
 骨身に染みている。
 仮想の世界は、映画や小説といったフィクションの世界に
 閉じ込めてしまって、現実の生活の息抜きにすれば良いなどと考えている。
 現実の生活に、仮想が深く関わるなどとは、
 現代人はおそらく本気では思っていない。

 しかし、実際には、私たちの生活体験は、
 現実と仮想の織りなす布のようなものである。
 確かに私たちが出会う多くのものは、現実のものたちである。
 しかし、その至るところに、
 それとは気付かないような繊細でかつ微妙な形で、
 この世のものではない仮想のものたちが潜み、絡み、顔を覗かせている。」
(本文より)

考えてみると、僕らの脳内で起こっていることの中で
仮想の占める割合は決して少なくはなく、そしてさらにその中で、
仮想されるだけで終わってしまうものも、とても多い様に思います。

仮想は、ほとんどの場合、
現実の経験に端を発して起こるものかもしれませんが、
一度始まってしまうと、あとはもう、どんどんどんどんと膨らんでいく。

そして、対象をよく知るからこそ創り出される仮想と、
充分には知らないからこそ創り出される仮想とがあり、
それは、どちらが劣っているとは決して断言できるものではない、
そう思います。

「初恋の仮想も、日常生活の中で流れに浮かぶ泡沫のように
 生まれては消える取るに足らない仮想も、
 実現しなかったからこそ切実な作用をもたらす時がある。」
(本文より)

実現には至らなかった僕の帰省時の仮想は、
それでもしっかりと、僕の姪への思いを形成する
大切な一部であり続けるのです。
Posted at 09:25 | | COM(2) | TB(0) |
2006.04.24

流れ着いた・・・

面白い写真集を見つけました。

「漂着物」 hiroshi mitani









タイトルの通り、捨てられたゴミたちが海を流れる間に
波や砂によって、少しづつ削られ、丸みをおび、そして流れ着いた。
それらのものを丁寧に撮影しています。

パーマ巻き
苗入れ
玩具
油入れビン

どうしてでしょう。
これらのものが「本来の役目」を全うしていたであろう時よりも、
こうして波に揉まれ、適度に丸くなった姿の方に魅力を感じるのは・・・

Posted at 01:33 | | COM(9) | TB(0) |
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。