2007.07.15

信じる。


初めて煙草を吸ったのは、おそらく中一の時。
近所のお寺の床下に潜り込み、友達同士で吹かし合った。
その一服を、本当にウマいと感じることができたなら、
それはもう「お子様」からは抜け出た証拠なのだ、と信じて。

「 信じることに場所をあけるために、
  知ることに制限をくわえなければならなかった。」

と、ある哲学者は言ったらしい。

知ることはとても大切だけど、
知っても知っても、僕らには所詮、
この世界の全てを知り尽くすことなんかできない。

だから、
ある地点で「知る」を諦めちゃって、というか、
知ることで理解する(した気になる)ということに歯止めを打って、
変わりにそこから先は、ただ無心に信じてみる、
なんてのも、たまにはいいんじゃないか。
信じるという心の在り方でしか観えてこないものも、
きっとあるんだろうし。



妖精については、
あまり知り過ぎない方がいいのだろうか?

降り続く雨に気がしずむ日は、
なんだか、そんなことも考えてしまう(笑)
2007.06.27

セーヌ左岸


写真というものが
瞬間を切り取ったものであるとすれば、
写真を見るという行為は、
流れる時間の中に在りつつ「瞬間」を見つめるという、
二つの時間の対峙なのですね。

それは常にかなわない。
感情を、掻き立てる。






写真は、エルスケンの
写真集「LOVE ON THE LEFT BANK」(セーヌ左岸の恋)より。
2007.05.20

マツ



待っているあいだに、
その待っているものでしか埋められない形が、
自分の中に「隙間」として作られていくのだと思う。
鍵と、鍵穴の様に。

今日も東京は、いい天気です。
2007.05.19

ないだろうか。


世界はおそらく

ひとつしかないけれど、

世界の見方ならば無数にあって、

できる限り

ひとつに固執したくはないから、

時にはこんなふうに、

転がってみたり、

目隠ししてみたりもしつつ、

日々、新鮮な見方というものを・・・





ある程度長く生きてると、
常識やら偏見やらでベタベタになった世界の見方を、
あたかもそれだけが本当であるかの様に、
思い込んじゃって、信じきっちゃって・・・

それは、なかなかにつまらないことだ。

でも、うま〜く
その「ベタベタ」を剥ぎ取ることができたなら、
そのあとに見えてくる世界の姿って、案外、
子どもの見ている世界に近かったりするんじゃないだろうか。

何か新しい分野について学ぶってことは、
その「ベタベタ」を剥がす為の、一つの良い方法になると思う。

してみると学ぶってことは、
ある意味では、子どもに還るってことでもあるんじゃないだろうか。
2007.05.06

窓辺にて


こんなふうに、
瓶に生けるだけでも、イケるんだね。



GWも、残すところあと一日。

あと一日しかないんだなぁ。
でも、これが普通の連休中だったら、
あと一日あるんだなぁ、って思うんだろうなぁ・・・

そーたい性ってヤツだなぁ・・・
2007.04.21

無いものを



昔の日記や作品を、全く持っていない。
全部捨てちゃってる。

特に「捨てること」にこだわりはないけれど、
逆に「持ち続けること」にこだわりもない。

ときどきは思い起こして、
あぁ、見たいなぁ、読みたいなぁ・・・
と思うけれど、

もしずっと手元にあったなら、
見たいなぁ、読みたいなぁ・・・という
あの独特な「無いものを想う感覚」も持てないんだろうなぁ、
とも思う。

見ることで想うか、
見ないことで想うか。
2007.04.13

欠損も、



個性のひとつであると捉えるならば、
こうなってからが本当の、モノとの付き合いの始まりなのだろう。

と、言い聞かせてみるも・・・
やっぱりショック。
2007.04.02

日曜日も、



ことり文庫さんに伺いました。
3度目です。
(注:決して泊まり込みではありません)

やっぱフランス人って、幼い頃から、
愛について、哲学的な思索を重ねてるんだなぁ、
と思わされた一日でした。
2007.03.31

土曜日は、



ことり文庫さんに伺いました。
2度目です。

最近は、
ずっとコーヒーばかり飲んでいたんだけれど、
気合いを入れてスコーンを食べる時には、
やっぱ紅茶の方が合うんだなぁ、と気付かされた一日でした。
2007.03.24

ふらふら



茂木さんばかり読んでるわけじゃないんだけれど、
やはりどうしても、茂木さんの言葉が引っかかってきてしまう。

「 初めての時に、よろよろふらふらみっともない。
  そのような脆弱さの中にこそ、生命の本質は顕れるのであろう。」

「 輪廻転生でも信じていない限り、
  生きるのも初めて、死ぬのも初めてであるはずだから、
  そりゃあよろよろ、ふらふらもするさ。
  しかし、それが地上にささやかな生を受けた
  私たちの価値というもんだろう。」


昨晩、
久しぶりにジョギングしたら、キツかった。
細胞のひとつひとつが・・・ とまでは言わないけれど、
筋肉が、血流が、明らかに着いてきてない感じ。
足も視界も、ふらふらだった。

それでふと、「そういやぁ、数ヶ月前の姪もふらふらだったなぁ」
ということを思い出した。
歩き始めたばかり、一心不乱に目の前の風船を追う姪の姿もまた、
ふらふらだった。

考えてみれば、
地球上における生物の繁栄の歴史それ自体が、そもそも、
ある意味では「ふらふら」だったとも言える様な気がする。
数十億年という永〜いスパンの中で、
何度も何度も、絶滅(?)しては、またどこからか再生してきた生命は、
決して「ウマいこと」進んできただけではないんだと。
きっとその歴史は「ふらふら」だったんだろう。

何かに慣れて、徐々に洗練されていくということは、
それはそれで美しいのかも知れないけれど、
慣れるとは、自分の手の届く範囲を操るということでもあって、
能力的に既に獲得された範囲内で生きること、とも言えるんじゃないか?


久しぶりにジョギングすると、
一度はダレかけた筋肉たちが、壊れて、再生し始める。
ふらふらになりながらも、ベッドに入る頃には本当に気持ちがいい。

そうか、「ふらふら」って気持ちがいいのか。
そう思うことができる。